宗教家と僕


結構前、Sという宗教団体の一人、W氏に勧誘されてみた時のことをレポートしてみようと思う。

自称『得体のしれないゲーム好き』の私は、変なことをするのが好きなのである。 この時も、興味本意で勧誘されて見た。

まず、結果から書くと、宗教に対して何の興味も湧かなかった。私は、キリスト教関係の学校を卒業した事実はあるのだが、宗教の時間に冗談で『オレ教』なるモノを作ったりしていた位なので、特定の宗教を信仰した覚えはない。経験上、宗教全般にに対して感じていることは、信者の方々には上下関係がハッキリしていて、上の人の言うこと以外には、全く聴く耳を持たないということ。この部分は、暴走族などの集団に近いと思う。

一人の人格を美化、神格化するということが、細かい欠点や不満点に対して無意識のうちに目をつぶることになってはいないだろうか。「愛は盲目」と言う言葉があるが、尊敬(宗教)は盲目、という言葉もあって良いと思う。

全く関係ないが、専行していたインターフェイス論や、知識、実績などでA氏を尊敬に値する人物に置いている。しかし、たまに漏れ出る下品なネタや言い回しには共感できない。尊敬していてもダメなものはダメなのである。私はそういう人間です。

で、肝心の内容はというと、

W「自分は今幸せだ、こうなれたのは〜のおかげだ」というものだった。W氏を尊敬(信頼)していた場合、そのまま宗教に入ってしまう恐れがある。これこそ盲目。

W「〜さんもこの宗教に入っているんだよ。」

などと、有名人、著名人を挙げるが、その人達が特別なんだよ!どんなにすごい宗教でも有名人の割合ってそんなに多くないぞ。で、勧誘に弱い人がその有名人に興味があった場合、疑わずに入ってしまう。まあ、例外なく一人残らず有名になれる宗教なら入りたいのだが…。

私は、勧誘に引っかかる人の心理がよく判らない。例えば、秋葉原の実演販売は勧誘&話のうまい人だと思う。(そうでなければ売れないしネ)でも、私の場合はしっかり見てから「ああ、使いやすいのか、それなら安いところを探そう…。」となる。その場で買ったら高いだけ損なのである。

W「宗教に関してはかなり勉強したよ、それで今の宗教を信じているんだ。」と、本人は説得力があると思って私に言うが、私の考えでは、「調べが足りないから一つの宗教に入っているんだろ?」という考えになる。(余りに失礼な言い方なので口には出さなかったが)何故なら、何かの信者である宗教研究家はいないからである。もしいても、平等な視野でほかの宗教を研究できないだろうし、そんな人間を認める奴はいない。

こんな質問をしてみた。「会場や、駐車場がいっぱい作られたけど、どこからお金が出ているんですか?」返答は、W「(その宗教の)偉い人の出版物の収入や、寄付金で作られた。」という、まるでマニュアルでもあるかのような模範的な返答だった。出版物って売るのか?、良い思想、良い考えなら売るなよ、タダで配れよ、金とるなよ。宗教は金銭的にオープンでないのが気に入らん。坊さんは宗教的な収入に対しては税金を払わなくても良いらしいしな。自分に自信のない人間が、欠点や精神的な隙間を埋めるために宗教に入る。(気の良い、人の良い人間が多い)そういった人達が求める強い信頼関係は信者同志にのみ存在する。そんな狭い世界でいいのか?

信者に対して、「自分の宗教を疑ってみると良いのでは?」とつくづく思うのだが、信じること(疑わないこと)が大前提として根底にあるので、少しでも疑うことが信仰の全否定につながってしまうため、何を言っても無駄なのだ。こんな一方通行的な宗教の在り方に疑問を感じるのは私だけなのだろうか。

宗教という考え方(思想)を画一化しようとする団体の中だけでは、所詮誰かを追いかけるだけで、私の求める新しいものは生まれないように思える。魅力のあるクリエイターの方々は、自分だけの道を歩んでいる。私もそうでありたい。だから宗教に興味はない。

「皆さん、自分の判断、自分の意見は持ちましょう。」と偉そうに、もっともそうに書いたが、この文章も、うのみにされては困るぞ。たしかに、書いた本人からして見れば、自分の意見に賛同してくれる人がいるのはうれしいのだが、全くもって社会知らずの知識不足の若僧が、自分の意見だけを趣味で書いたものなので、何の責任も持てないぞ。